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2007年8月18日〜8月ぐらい戦争カタレ場@MediaCafe
*無事、終了しました。当日の様子はblogをご覧ください。
07.8.18-107.8.18
●○ 8月ぐらい戦争カタレ場@MediaCafe ○●
  2007年8月18日(土)10:00〜12:30(13:30開場)
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    「若いモン」も「若くないモン」もこの指と〜まれ!
        みんなの「しゃべり場」ひらきます!
       〜平和は世代を超えて一緒に創るもの〜

「今どきの若いモンは」なんて言っているそこのあなた。
「どうせオジサンには言っても分かんないから」と年配者を避けてる君。

そう言ったまま違った世代が接点を持たなければ、いつまでたってもお互いに理解し合うことはできません。自分で可能性をせばめていませんか?

それぞれの世代が、別々にグループを作ったり、目的は同じでも全く違った手法で取り組んでいることもしばしば。特に、「戦争」や「平和」がテーマとなるとなおさら。でも逆にいうと、こういうトピックだからこそ、お互い知恵を持ち寄って、世代を超えて一緒に創ることが必要なのでは。

敗戦記念日の8月がもうすぐやってきます。
戦後62年目の夏。多様な世代がそろそろ一緒に、ざっくばらんに語り合える機会を持ちませんか。

30余年にわたり戦争を取材してきたジャーナリストの浅井久仁臣と、若い世代の立場から戦争を語り継ごうと元日本兵と戦争体験者の聞き取り調査を始めた神直子がまずはその取材体験を紹介。

その後は自由にしゃべり場!

日 時:2007年8月18日(土)10:00〜12:30
場 所:Media Cafe(東京都千代田区猿楽町2-2-3NSビル202)
最寄駅:御茶ノ水、水道橋、神保町
地 図:http://www.ourplanet-tv.org/main/ourplanet/images/map.jpg
⇒参加希望者はinfo@bridgeforpeace.jpまでお申込ください。

○主催:Media Literacy Institute
○共催:BRIDGE FOR PEACE
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○参考:浅井久仁臣「私の視点」 http://www.asaikuniomi.com/
    神直子 BRIDGE FOR PEACE http://bridgeforpeace.jp/ 
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| 神 直子 | - | 22:45 | comments(1) | trackbacks(0) | -
2年前にマスコミ市民に掲載した拙稿です。ご笑覧下さい。

沖縄・慶良間からの証言 上
60年前、日本は戦争に負けた。新憲法が発布された。戦争放棄の条文に誰もが疑いを抱かなかった。いま戦後世代が還暦を迎える年になった。悲惨な体験も遠い記憶となりつつある。ところが沖縄ではイラクに軍用機が飛び立ち、米軍人の強盗・強姦、空からのヘリコプターや部品の墜落は日常茶飯事だ。ここでは憲法の恩恵に浴する機会がないまま、どこかで勝手に改憲が論議されているようだ。米軍初上陸の地、慶良間諸島から報告する。

「本島に米軍上陸」
横一面の大見出しにギョッとした。写真は読谷山村渡具知海岸に上陸した米軍。水平線まで艦船が浮かんでいるのが見える。縦見出しは兵員18万3000人投入 日本軍反撃せず 各地で「集団死」。4ページにわたる特集で、当時の写真も沢山載っている。沖縄では、日本軍が各地で民衆を道連れにした。その模様が再現されている。
これは沖縄戦60年を記念して琉球新報が時々発行している沖縄戦新聞の第7号である。日付は1945年(昭和20年)4月1日。これから約2ヶ月半にわたって住民を巻き込んだ沖縄戦の地獄絵図が始まる。日本軍の捨石作戦であった。米軍による日本本土への攻撃を少しでも遅らせるためだ。沖縄は「鉄の嵐」と呼ばれるほど、くまなく弾丸が打ち込まれた。60年後の今でも不発弾処理のため時々交通が遮断される。その度に住民は一時避難を余儀なくされる。米軍は戦争後そのまま居座り、いつ出てゆくのか不明。日本政府は住民の迷惑に対して考慮せず、かえって米軍に対して「思いやり」を示している。
20日後、第8号の4月21日一面は 米軍が伊江島占領 住民1500人が犠牲 日本軍守備隊は壊滅 女性も総攻撃に参加 沖縄守備軍 方言使えばスパイ 極秘の住民監視隊設置。中を見ると 住民、激戦の中に爆雷背負い戦場へ 竹やり手に攻撃 投降許さず徹底抗戦 同級生、次々犠牲に 「自決か、殺されるか」覚悟 「父さん殺さないで」 壕内にあふれる遺体 ・・・。リードには悲惨さを増した「戦場」の様子が描かれている。
「米軍によると、日本軍は住民を戦闘に動員しており、乳飲み子を背負った女性まで米軍陣地へ突撃しているという。」 

ゴールデンウィークの4月30日、慶良間諸島を訪れた。座間味島にある海洋館は私の定宿だ。建物の一階は慶良間海洋文化館と銘打たれ、沖縄と中国の歴史を担った船の模型や、サバニと呼ばれる沖縄独特の舟、特攻に使用したモーターボートの復元船、それに本物の魚雷が展示され圧倒される。隣接した一階には食堂、二階が居間と寝室。7人泊まれる。ここが海洋館という民宿。満室でも20名程度の小さな宿だ。訪れるのは10回目くらいだろうか。那覇から高速船で50分、フェリーで1時間半の距離だ。沖縄に移り住んで7年目だが、この島が一番縁が深くなってしまった。夏はダイビング、冬はホエールウォッチングで人気のスポットだ。若い人の90パーセントが本土からの移住組で、小学校では東京弁や大阪弁や飛び交っているという不思議な島。古座間味ビーチは、岸からわずか20メートルの所に珊瑚が群生し熱帯魚が泳ぎまわっている。目の前の安室島は無人島。カヌーで渡り、海に飛び込むと珊瑚のお花畑が広がる。この海で遊ぶのが沖縄の最大の楽しみの一つだ。私の知人は、世界中の海で潜った経験がある。オーストラリアのグレートバリアリーフにもカリブ海にも負けないのが慶良間の海だ、と言っていた。

「慶良間に米軍上陸」
沖縄戦始まる 座間味、渡嘉敷で「集団死」 追い詰められ「死」選択 妻を子供を・・「一緒に」。―沖縄戦新聞第6号(昭和20年3月26日)
米軍が沖縄に最初に上陸したのは慶良間諸島であった。60年前の3月26日午前8時過ぎ、米軍は一斉に慶良間諸島のうち5島に上陸した。航空機による体当たり攻撃「天一号作戦」が発令されたが、中心となる海軍の第五航空艦隊(鹿屋)は既に8割の航空機を失っていた。日本軍に戦う力はなかった。
体制整わない32軍 支援なく玉砕は必至 沖縄「捨て石」一層色濃く
一方、上陸した米国海軍は直ちに布告を出した。太平洋区域司令長官兼南西諸島其近海軍政府総長、海軍元帥シー・ダブリュー・ニミッツ名、布告第一号。
米国軍占領下ノ南西諸島及其近海居住民ニ告グ(中略)二 日本帝国政府ノ総テノ行政権ノ行使ヲ停止ス
全ての権限は米軍の手に移った。布告の文章だけでは分からないが、反対するものは兵隊であれ民間人であれ容赦なく殺す、という宣言でもあった。
負け戦では悲惨な事件が続発する。「集団自決」があちこちで起きた。(もっともこの言葉は問題だ。子供が「自決」するはずはないからだ、戦闘員ではない民間人が保護されず、「自決」を迫られるのもおかしい。そこで沖縄戦新聞では集団死という言葉を使っている。ここでもそれに従う。)
座間味島には平地が少なく、米軍が占領する価値はない、従って上陸の可能性は薄い、という噂が流れていた。それだけに住民達の狼狽ぶりは大きかったのだろう。   
― 住民側の記録では、昭和19年10月10日、グラマン機が低空飛行しながら船舶を機銃掃射している。1月22日には港に停泊していた軍用船6機がやられ、沖縄本島からの食料が途絶えた。そして3月23日、座間味部落が空襲にあい、住民は防空壕住まいを余儀なくされた。(座間味村史・下より)
3日後、3月26日、米軍上陸。艦船が十重二十重に島を包囲した。水平線まで続く艦船を目撃した人達は山に逃げた。激しい艦砲射撃で山は焼き払われた。夜は照明弾が打ちあがり真昼のような明るさの中で、砲弾が炸裂した。追い詰められた住民達は住民同士で命を絶った。カミソリで頚動脈を切り、首を絞めた。谷間には手榴弾の爆発音と悲鳴が響き、土は血で染められた。
当時の模様を海洋館の老夫婦に語ってもらった。以前にも夕食の時などにいろいろ話を聞いていた。阿嘉島の軍隊の中に二世がいて、英語がペラペラ、この人が日本刀を背負い海へ。米艦船に泳ぎ着いた後、船のスピーカーを利用して住民に投降を呼びかけた。同じ島でおじいが嫁と孫を手にかけたが、自分は死にきれない。狂乱状態のまま、サバニで海へ漕ぎ出し米軍の船に保護された・・・。阿嘉島は慶良間諸島の中で、米軍が最初に上陸した島だ。15分後には座間味島に上陸が始まった。この二人は島での戦闘は直接目撃していない。敗戦後、島に戻ってから親戚などから聞いた話も混じっている。

究極の無農薬野菜―おばあの証言。
「山は全部焼けてしまってねー。薪を取りに行くと木が立ったまま、焼け焦げて死んでいるさ。全然力もいらん、こうしてそのまま(折って集めて)持ってきよったよ。」
「しばらく経つと焼け跡にユリの花と慶良間ツツジが咲いてねー。港から(山を)見るときれいだったよー。」
「みんな死んだ場所に野菜植えてねー。お化け野菜。キャベツや芋、よく育ってね。(死体の)肉が土に染み込んで。肥やしがいいからねー。骨は見えんから(死体が埋まっているのは)分からんさ。」
「米軍に捕虜になって捕まった人が、帰ってきたら、今度は友軍に捕まってスパイ扱いされた。山の中で(吊るされて)殺されたのを、(住民が)降ろして分からんように埋めた。自分たちもスパイ扱いされるから、黙ってたって。」
「座間味では赤瓦の家が5軒残ってたんだけどね。友軍が夜襲かけるでしょ。だから全部焼かれた。」
「朝鮮人の慰安婦もいたみたいよ。私達は分からんけど(親戚の)おばさんが(阿嘉島で)炊事担当していたからね。梅沢隊長のめかけになっていた人は、ウチナンチュと変わらんさね。日本名でえいこって言ってね。梅沢隊長は最後までね。あれは許せない。」
(親戚の)おばさんは最近までほとんど戦争のことはしゃべらなかった、と言う。
海洋館のご主人の証言。ずっと黙っていたが、最近はいろいろと取材が来るらしい。

どうにも止まらない―おじいの証言。
「(慰安婦は)座間味に7人、阿嘉に7人、渡嘉敷に7人おった。」
「阿嘉の隊長は結局8月15日まで戦争止めなかった。それで陸士の二期先輩の梅沢隊長が呼ばれてね。(本島の)屋我にいたんだが、座間味の人は大勢あそこに収容されてね、
隊長は怪我してたんだが担架に乗せられて運ばれてきた。それで抵抗やめなさい、と言ったんだが(阿嘉の)隊長は、天皇陛下から電話貰うまでは止めない、まあ(この通りではないが)当時の軍隊の教育は徹底してるから、もっと上の人の命令じゃないと聞かない、という話だ。」
 「大体、日本人は言っても聞かない、だから乗り込んで叩くしかない、台湾をやめて(上陸しないで)、沖縄(を直接攻撃すること)に決めた、これは(太平洋地域総司令官)ニミッツが急に変えたらしいですよ。」












 沖縄・慶良間からの証言 下
60年前の3月26日、沖縄の慶良間諸島に米軍が上陸した。日本軍は住民を巻き込んで本島南部に立てこもり、2ヶ月半後、壊滅した。米軍の日本本土への攻撃を少しでも遅らせるための捨石作戦だった。憲法無視の国が、どういう結末を迎えたかの一例だ。
慶良間海洋文化館(資料館)には、中国との交流の歴史を刻んだ船や、戦争時の特攻艇が復元されている。隣接した民宿・海洋館で老夫婦に話を聞いた。

沖縄では老人をおじい、おばあで片付ける。海洋館の宮里さんで慶良間一帯の人はすぐ分かるが、読者のために紹介しよう。宮里清五郎(きよごろう)氏。79歳。大正14年6月25日生まれ。妻、静子。71歳。昭和8年生まれ。戦争当時は清五郎氏は関東、静子さんは台湾にいて難を逃れている。現在では子供5人、孫8人。ゴールデンウィークや夏休みには、娘さん4人が入れ替わり海洋館の手伝いに来ている。近く次女の婿が横浜の会社を辞めて、座間味に定住する。民宿は娘夫婦に任せる予定。一階の海洋文化館(資料館)では毎日清五郎氏が参観者に説明している。やがて館の公営化、展示品の整備を図り、歴史を後世に伝えてゆくのがライフワークだ。
清五郎氏は若いときは成績優秀のため沖縄師範学校に行きたかった。ところが四男のため断念。カツオ船に2年間乗り学資を稼いで東京へ。海軍に入り19歳の時は特攻の訓練に明け暮れた。20歳のときに敗戦。長男、長女はトラック島で戦死。
昭和23年には家族で船を手に入れ、糸満との間で運搬船を往復させた。その時に船長を務めて以来、船の仕事一本槍だ。琉球海運の船長、船舶検査員、いまでも79歳の世界最高齢(?)コンパス・アジャスター(船は鉄の塊、磁石の針は少し狂う。その調整をする人。)として活躍している。60年前は横須賀を中心として関東各地で訓練し、体当たり特攻に備えていた。練習機は水上と海中を自在に走る「海龍」。本人の記憶によれば直径1.3メートル、長さ17.5メートル。二人乗り。爆撃機銀河の操縦装置を装着。人間魚雷「回天」の次に開発された新鋭機だった。しかし敗戦で出動命令が下ることはなかった。

幻の特殊潜航艇「海龍」
「回天は機動性がないから、その欠点を補った海の中の飛行機ですよ。100メートルくらいの深度を推定していたらしいんだが、私たちが練習したのは水深2〜30メートル。ある時、水深300メートルで爆発実験したが、異常なし、だった。魚雷を脇に二つ抱いてね。最後は600キロの爆弾とともに体当たりする。水上はジーゼル、海中はバッテリー。ところがバランス取るのが難しくてね。それに技術的にはハッチのパッキン、水上航行の時に空気を取る弁、この二つが問題でした。」
同期生は訓練中にほとんど死んだ。パッキンが押しつぶされ、水が浸入して浮力が戻らなかったためだ。沈んだ潜航艇を引き上げるには8時間かかった。しかしそれまで酸素がもたず、乗員二人の命はない。
「恐い、ということはまったく考えなかったですね。誰も好き好んで死にに行くわけじゃない。慶良間は全滅、みんな殺された、と聞いてましたから。これが運命だ、と思ってね。」

海上特攻基地の島
海洋文化館には約9メートルの鉄の円筒形の塊が、雨ざらしになっている。本物の魚雷である。重量は3〜400キロと聞いたが、もっとありそうだ。後ろには推進機関。清五郎さんが95式酸素魚雷全体配置図という大きな紙を出して説明してくれた。縮尺10分の1。雷速射程50kt・5500m、40kt・9000m、主機BHP360Hp、気(一字不明)径・行程130×160、装備重量1720kg、空体重量1317kg、負浮力403kg、復原力50kg、頭部重量671kgとある。頭部が爆薬のはずだ。
魚雷の横にはモーターボート。これはベニヤ板で出来た粗末なもの。操縦席後方に125キロ爆雷を2個搭載し、敵艦船に体当たりする船(復元)だ。マルレと呼ばれる海上特攻艇で、約300隻が配備されていた。
― 隊員は、20歳前後の船舶特別幹部候補生、および基地建設部隊、「朝鮮人軍夫」らから成る特設水上勤務隊であった。陸海空の特攻「神風」、海軍の水中特攻「回天」と違い完全な秘密部隊だった。日本軍としては、これらの船を隠しておき、米艦船を後ろから襲う作戦だった。つまり沖縄本島に上陸した艦船に対し、夜陰に乗じて慶良間諸島から出撃し一撃を加える予定だった。米軍はフィリピン進攻作戦で海上特攻に悩まされていたが、慶良間諸島に海上特攻隊が隠されていたことを知らなかった。太平洋地域総司令官のニミッツ元帥は「船団に対する重大な脅威を未然に防いだ」と評価した。(2005年3月26日−沖縄戦新聞) 特攻艇は全て捕獲され、火炎放射器で焼き払われた。


唐船の往来する島
私が住んでいる所は沖縄大学の近く。丘陵の中ほどに建てられたマンションの7階だ。ベランダから慶良間諸島を望むことが出来る。見えている島は慶良間諸島最大の渡嘉敷島だ。座間味島はその向こうに位置する。慶良間諸島は那覇市の西海上約30〜40キロ。大小20余の島々からなる。実際に来て見ると、島々が意外に近く慶良間内海という言葉が実感できる。座間味島には展望台が5つあるが、そのうちの高月山展望台に立つと眼下に阿護の浦が広がっている。東北東の位置に長方形に水の色が濃く見える所がある。そこだけ深くなっていて、唐船を繋留した、とされる。唐船グムイと呼ばれる場所だ。爆薬を使って海の底を掘った、と展望台の説明版には書かれている。しかしこの時代に水中で火薬を爆破させる技術があった、とは思えない。ともあれ中国へ向かう琉球の船は唐船グムイで風待ちした。なかには2ヶ月も滞在した例もある。中国から帰る船も一時立ち寄った。
沖縄と中国との付き合いは14世紀まで遡る。中国の冊封体制の下で、中国には多いときは毎年3回も進貢船を出していた。後には2年に一回に制限されたが、中国との頻繁な交流は沖縄に深い影響を及ぼしている。この時代を大交易時代と呼ぶ。もっとも琉球が輝いていた時代であった。
― 一六七三年(康煕十二)から一八七三年(同治十二)までのちょうど二〇〇年間で、進貢、接貢、あるいは「読書習例事」等を目的とした船舶の航海が少なくとも百回近く(九八回)は馬歯山を経由して行われていたことがわかる。(座間味村史・上)
馬歯山が現在の阿護の浦だと言われている。唐船グムイからは陶器が見つかっており、古くは5〜6百年前のものだと推定されている。大交易時代に中国へ旅立った人は総計で十万人と推定されている。人口が同じ十万人位と推定されているから、200年間に島の人口全体が中国との往復を経験した計算になる。
唐へ旅することは、当時の航海技術では危険に満ちていた。沖縄では唐旅(トゥータビ)と言えば、冥界への旅立ちも表す。その代わり唐から帰還した時の喜びは大きかった。異国の商品を持ち帰れば何十倍にも売れる。無事帰還は一家繁栄につながる。唐船の帰りに人々は狂喜乱舞した。いまでも唐船(トウシン)ドーイという歌と踊りで想像できる。沖縄のめでたい席で必ず最後に出るカチャーシーがそうだ。両手をかざし両方に振る。人間が喜ぶ時の原初の姿のようだ。中央アジアのトルクメニスタンで結婚式の披露宴に参加した時、リズムは少し遅いがまったく同じ手付きで全員が踊っているのを見て驚いたことがある。
さて阿護の浦を出た船は久米島を経由して黒潮を乗りきり、いまの福建省福州の五虎門に入った。黒潮は中国と琉球の間に横たわる大きな河のようなものだった。黒潮を越えて3日で福州に着いた、という記録もあるらしい。福州に落ち着いた一行は、早速北京を目指す。ただしそれは正使だけの話で、乗組員やお供のものは滞在中、「ビジネス」に精を出す。中国や東南アジアの商品を満載した船は琉球に取って返す。
福州を出た船が黒潮を越えると尖閣列島だ。琉球はすぐそこ。やがて久米島が見えると
島からは烽火があがる。島々の高台には烽火台があり一隻なら烽火一炬、異国船であれば烽火三炬を焚いた。材料は琉球松。少し湿らせて焚くと白い煙が上がる。こうして久米島で船の姿が見えると、那覇までの島々に次々に烽火があがり帰還を知らせた。
― 点火の順序は、最初に久米島で、渡名喜島がそれを受け、続いて座間味、渡嘉敷、前島、そして小禄に知らせ、小禄は首里城に報じることになっていた。(座間味村史・上)

2000キロを航海するサバニ
昔からの沖縄の海洋文化は今でも生きている。5月1日、沖縄県糸満市で「海人丸」の進水式が行われた。これは海人EXPEDITION 「サバニ帆漕航海二〇〇五」で使用するサバニだ。沖縄のサバニは風力と人力だけで航海する。星の位置だけで方向を見定め、大海原を渡る舟だ。この小さな舟で昔の沖縄の人々ははるかフィリピン沖まで出かけた。6月5日、サバニ「海人丸」は沖縄本島南部の糸満市を出航する。五島列島、種子島、宮崎、高知を経て愛知をめざす行程約2000キロの航海だ。愛知県到着後は沖縄の海洋文化を披露するため「愛・地球博」会場に展示される。全国から約30人のクルーが参加する。
戦争末期、19歳の少年は特殊潜航艇を操縦し、敵艦船への特攻訓練に命をすり減らした。戦後60年、同世代の若者がサバニを操り、海人(ウミンチュ)文化を守り、次世代へ残す努力を重ねている。サバニを提供したのは慶良間海洋文化館の宮里清五郎氏である。











| 緒方修 | 2007/08/16 4:48 PM |










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